東京での弁護士事務所勤務を経て、長野市に中村隆次・田鶴子法律事務所を設立したのが昭和59年(1984年)。バブル景気の突入期から現在まで、これまで関わってきた事件等のこと、またその背景にある過去30年の社会の動きを振り返ります。
- 昭和26年2月27日 長野市生まれ
- 昭和44年 長野県長野高等学校卒業
- 昭和49年 司法試験第二次試験合格
- 昭和50年 中央大学法学部卒業、司法研修所入所
- 昭和52年 弁護士登録(東京弁護士会)
- 昭和59年 長野県弁護士会に登録換え
- 平成3年 長野県弁護士会副会長
- 平成13~17年 信州大学経済学部非常勤講師(企業法)
- 平成18年 長野県弁護士会会長
- 平成19年 長野市固定資産税評価審査委員長(~現在)
- 平成21~26年 独立行政法人日本司法支援センター(法テラス)長野地方事務所所長
- 平成26年 長野県後期高齢者医療広域連合情報公開審査会及び個人情報保護審査会委員(~現在)
「生活の法律相談シリーズ 金銭貸借」(法学書院)、「借地ものがたり」(大蔵省印刷局)、「新注釈民事再生法」(きんざい)、「破産実務Q&A 150問」(同)、破産実務Q&A 120問」(同)、「破産実務Q&A 200問」(同)、「通常再生の実務Q&A 120問」(同)、「倒産処理と弁護士倫理」(同)(いずれも共著)
企業法 倒産法 契約法 取引法 土地法 その他民事法一般
- ・ 昭和電機産業(株)保全管理人・更生管財人(平成9~13年)
- ・ 地附山地すべり訴訟 湯谷団地住民側副主任代理人(平成9年)
- 昭和29年8月14日 埼玉県浦和市生まれ
- 昭和48年 埼玉県立浦和第一女子高等学校卒業
- 昭和52年 中央大学法学部卒業
- 昭和55年 司法試験第二次試験合格
- 昭和58年 弁護士登録(東京弁護士会)
- 昭和59年 長野県弁護士会に登録換え
- 平成5年 長野県弁護士会副会長
- 平成5~15年 長野地方労働基準審議会家内部会委員
- 平成5~9年 長野県女性の生涯学習促進綜合事業の企画推進委員
- 平成6~15年 長野地方法務局 人権擁護委員
- 平成6~10年 長野県環境審議会委員
- 平成7~9年 長野県地方薬事審議会委員
- 平成8~10年 長野市交通災害等共済審査会委員
- 平成8~16年 長野市女性問題懇話会(平成12年4月~男女共同参画懇話会に名称変更)委員
- 平成12~16年 長野市公平委員会委員
- 平成14~16年 長野市公平委員会委員長
- 平成14~26年 長野県労働委員会公益委員
- 平成21年 独立行政法人長野県立病院機構評価委員会委員(~現在)
- 平成24〜26年 長野県労働委員会会長代理
- 平成25年 一般財団法人長野市文化芸術振興財団評議員(~現在)
- 平成26年 長野県建設工事紛争審査会委員(~現在)
- 平成27年 長野地方労働審議会委員(~現在)
- 平成28年 長野県個人情報保護運営審議会委員長(~現在)
- 平成28年 長野県医療安全支援センター運営協議会委員(~現在)
「身近な法律 Q&A」を2年間、信濃毎日新聞に連載
「市民生活と法」(第一法規 共著)
家族法 相続法 契約法・取引法等民事法一般 労働法
長野市初の女性弁護士として
隆次 長野市の女性弁護士っていうのは田鶴子弁護士が初めてだったね。
田鶴子 はい。長野県内では2番目です。
隆次 1番目は飯田市にいらっしゃる先生で、2番目が田鶴子弁護士。ですから当時は非常に珍しい存在でしたね。ある意味、女性弁護士の“パイオニア”としてやりがいもあったでしょう?
田鶴子 人口の半数は女性なので、やはり女性のニーズがありましたね。それまでは同性の弁護士に相談する、という選択肢がなかったわけですから。「女性と法律」といったテーマで、講演の依頼も多くありました。
隆次 男女雇用機会均等法が制定されるよりずっと前の話だ。
田鶴子 そうですね。長野に来る前の1年間、東京弁護士会で勤務弁護士として働いていたとき、ちょうど女性に関する委員会を立ち上げようという時期で、当時1歳になる子どもを抱えながらそれに参加していたでしょう。結局、立ち上げる前に長野に来ることになって、最後までは参加できなかったんですけど、そのあとですよね、男女雇用機会均等法が制定されたのは。
隆次 今でこそ女性が子育てをしながら仕事をする環境が整いつつありますが、当時は大変でしたね。私が東京で弁護士登録をしたのが昭和52年のこと。53年に結婚をして、田鶴子弁護士は家事をこなしながら司法試験に備えていた。家でご飯を炊きながら勉強して……それで受かっちゃったんだよね。それが55年のことか。
田鶴子 弁護士になったときには子どもが1歳だったので、その頃はちょっとしんどかったですね。ですから、働きながらお子さんを育てているお母さんの気持ちはよくわかります。同期の独身の弁護士は深夜まで仕事をしていて、うらやましいなと思いながら、5時には保育園に迎えにいってご飯食べさせて。仕事を持ち帰ってはいるんですが、結局子どもと一緒に疲れて寝てしまう、という日々でした。
隆次 あなたが1年だけおいていただいた事務所もご夫婦が経営していたんだけど、奥さんの先生は子育て経験があったから、ある程度そういった苦労は察してもらっていたのかな?
田鶴子
ただ、私よりも1世代前の先生方は保育園自体がなかったので、ベビーシッターを利用する人が多かった。だから彼女も24時間ベビーシッターにあずけていたんです。ベビーシッターに頼るか、母親に頼むか、または完全に子育てが終わってからじゃないと仕事ができない時代だったんですね。だから仕事を辞めてしまう女性も多かった。
その後、私のちょっと前の世代から保育園の設備がようやく整ってきたので、保育園にあずけて、場合によってはベビーシッターも併用しながら働くようになりました。そうやって私たちは何とか子育てと仕事を両立させてきたんですね。だから育児休業法ができたときはうらやましかった。子どもと1年も一緒にいられるなんていいなって。
ただ、男女雇用機会均等法の絡みで時間外労働が解禁されたり、女性にとって労働条件が厳しくなった部分もあります。
隆次 そういう意味では、この30年というのは大きな変化がありましたね。
田鶴子 男女雇用機会均等法と抱き合わせで「派遣法」の法案が通ってしまったり。派遣法も、当初は業種が限定されていましたから、ここまで深刻になるとは思いませんでしたが、やはり良い結果は生まないと思っていました。
バブル景気と土地問題
隆次 昭和59年に長野に戻ってきて、そこからちょうどバブル期に突入したわけです。そして平成3年頃にバブルがはじけたでしょう。東京ほどじゃなかったけれど、長野にも「ミニバブル」があった。だからこちらに来たばかりの頃は、土地問題にずいぶん関わりましたね。ただ幸いなことに、長野は東京ほどの大きな影響はなかった。その代わり、長野の場合は「オリンピックバブル」というのがありましたが。こうやって改めて思い返してみると、時代背景がよくわかります。女性の社会進出とバブル、その崩壊と土地問題。長野に来てから10年の間に世の中が大きく動きました。
田鶴子 本当にそうですね。東京の文京区に住む友達が3000万円で買ったマンションが「億」になったっていう時代でしたから。ちょっと踊らされた時代でしたね。そのバブル景気と崩壊を経て、その後、俗にいう「失われた10年」へと突入します。そして増えた相談が「倒産」。「働きたくても仕事がないんです」という方のご相談は、本当にお気の毒だけど、何ともしてあげられないというのが辛かった。